弐寺の思い出②

先日の記事の続きです。①はこちら→弐寺の思い出① - ゲームが好き

 

Lincle

どのようにモチベーションを維持していたのかはもはや思い出せませんが、DJT筐体があるゲーセンを転々としていたように思います。KAC 2011の九州エリア決勝に出場したり、天空の夜明けの伝導に成功したりと、なんだかんだで思い出のある作品です。KAC 2011については、エリア決勝で使われた筐体が鍵盤ガチガチの初代筐体だったため、なすすべなく最下位で終えました。白くなったe-passにwacさんのサインをいただいたことはいい思い出です(使ううちに消えてしまいましたが)。

 

tricoro

念願の判定調整機能搭載。でもやっぱり、DJT筐体の判定が一番しっくりくることに変わりはありませんでした。Plan 8(A)でAAAを出すまで頑張ったことを覚えています。

 

SPADA

元々モチベーションが下がっていたところに、実質的な1プレイの値上げ(100円玉では4曲プレイできなくなった)が伴って、完全にやる気を無くしてしまいました。同時期にやらなくなったという方を見かけることがあるので、やはり値上げの影響は大きかったのではないかと思います。

 

PENDUAL〜CANNON BALLERS

私生活の変化により、時間とお金がほとんどなくなってしまったことが追い討ちとなって、皆伝を取るため以外で触ることはほとんどありませんでした。この期間はトータルで50クレもやっていないと思います。中伝を初めて受けたときに、DIAMOND CROSSINGの難しさに驚いたことが唯一の思い出と言えるかもしれません。

 

Rootage〜現在

BEMANI道、再発進。友人と遊んだ際に久々に触れた弐寺が楽しかったため、徐々に復帰していきました。完全な浦島太郎状態で、☆12フォルダの曲数が無尽蔵に増えていることに驚き、手首皿のプレイヤーが多くいることに面食らいました(休止前までは、手首皿はごく一部のフルコンランカーだけが使える職人芸という印象でした)。

休止以前のタコだらけの指や、鍵盤を押すための筋力などを完全に失っていたため、復帰したての頃は怪我も多く、決して順風満帆とは言えない再スタートでしたが、「弐寺が楽しい」という思いのままにプレイを続けて、今やBPLの選手候補になれるまでに上達することができました。本当に幸せなことだと思います。

今もなお、弐寺の楽しさには変わりがありません。気負うことなく、これからも楽しいビートマニアを続けていければ、と思います。